ヲサム視線

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そのときヲサムは何を思っていた?




1章:サラタビに至るまで。

21世紀が始まってすぐの1月。有楽町の、とあるタイ料理レストラン。
ダジャレ好きな写真家とその奥様。ベース弾きの広告屋さんとその彼女のピアニスト。そして、還暦を迎えるフリーター。この平均年齢約40代のメンバーの中に20代中盤のワタクシ。総勢6名の新年会の席だった。この新年会での会話から"サラタビ"は始まったのである・・・。

そもそもワタクシの「旅」というもののきっかけは学生の頃である。上にいる還暦を迎える(もう迎えた。)フリーターと一緒に旅をしたのがきっかけである。実はこのフリーター、ワタクシの伯父にあたる人物。当時は会社に属し、アジアの国々を飛びまわっていた。その伯父と共に香港に遊びに行ったのである。その時、あのなんとも言えないアジア臭さ、雑多なところに惹きつけられたのがきっかけである。

以後、惹かれるがままにタイ、韓国等に赴き、アジアを満喫した。旅、そして特にアジアという世界に惹かれ始めると、行きたくなる国がインドと言われる。ご多分にもれずワタクシもそうなってしまったのである。このインドへ行きたいという気持ちをそのフリーターに話した事がきっかけに、当時大学4年生だったワタクシにインドに行けるというチャンスが飛びこんできたのである。当時、アジアを飛びまわっていたフリーター(伯父)がインドに撮影旅行に行くので、それに同行させてくれるというのである。

当時、学生ということもあり、比較的時間のあったワタクシは、学業よりもこのチャンスを取ってしまった、卒論云々もあったにもかかわらず・・。まっ、結果的に無事卒業でき、今があるので問題はなかったのだろう。で、その撮影旅行の写真家が上のダジャレ好きな写真家(奥様はアシスタントだった。)だったわけである。ワタクシはその写真家のかばん持ちを仰せつかった。インドの話はまた機会があれば書こうと思うが、このインド旅行は最終的には写真集、写真展というすばらしい結果になった。

このインドの撮影旅行の成功がきっかけに、翌年、今度はインドネシアへ同じメンバーで撮影旅行があるという話がフリーターよりきかされた。当時、ワタクシは早々と就職というイバラの道を捨て、大学院という特殊学校に通っていたのである。今思えば、まだ、旅をしたかったのだろうか。またまた比較的時間があったワタクシは修士論文云々もあったにもかかわらず、またまたこのチャンスを取った。

しかし、この旅では前回のインドとは違うメンバーが途中から加わったのである。その人は、フリーター(伯父)の囲碁仲間であり、上の広告屋さんでもある、今回のサラタビの相手である藤浦さんであった。この方、某有名広告屋さんに勤務しており、この旅行時に、なんと、今まで貯まった約60日ほどの有給を全て使って、アジア諸国を旅していたのである。その旅の途中に、フリーターと事前に打ち合わせをし、我々に合流したのである。彼もまたアジアに惹かれた1人なのであろう。その辺の事は藤浦さんのコラムで何らかあるだろうし、本人のホームページでも、皆様ご存知の通り、おもしろサイト(「有給放浪」)をひらいているので、一度、ご覧になってください。

前置きが長くなったが、新年会のまったくおかしなメンバーはこうやって旅、アジアを通じて知り合ったのである。そんなメンバーであるため、やはり、その新年会でも話題は旅が中心だった。
「今度はどこ行く?ウズベキスタンなんてどう?(ウズベキスタンちゅうのもかなりとんだ話だと思うが・・)」などである。しかし、今は、当時と違い、フリーターは職業がらいろんな仕事を手がけており、当時より忙しく、藤浦さんも有給消化済み。そしてワタクシも暇な学生から、一応、社会人になった身。写真家も独立し、忙しい日々。当時と違って、皆、中々時間があわない感じ。そんな中、藤浦さんがワタクシに、「時間が取れないから、取れないなりにサラリーマンでできる旅なんてどう?」とワタクシにふってきたのである。

偶然にも(?)、サラリーマンはワタクシと藤浦さんの二人。しかも、まだ社会人になったばかりのワタクシには機動力があるとふんだのだろう。勿論、その期待通り、ワタクシは今回もまたまた乗ったのである、旅に。酒も入っていたせいか、「OK。行きましょう。」と即答し、二人で盛り上がってしまった次第である。まっ、こんな感じで、サラタビは決まった。やはり、惹かれる所、モノには、幾つになっても惹かれるものなのであろう。お互い、一緒に行ったインドネシア以来、アジアには行ってなかった。どこか、アジアの虫が体の中でうずいていたのかもしれない。サラタビの始まる大きな要因はこの虫のせいであろう。





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