言わせてもらえば
「知らぬがホトケ」の新しい意味。

同じような主旨をふたつのまったく違うところで聞いた。

ひとつは「なぜ大リーグに4割打者がいなくなったか」という論である。球場の大型化、用具の質の変化、日程が厳しくなった、などの仮説をひとつづつ反証をあげてつぶしていくと、残る原因は「情報が増えた」ということになるらしい。

打者、投手双方の情報量が増えることにより、大リーグから打率1割のレギュラー野手もいなくなったが、その代わり4割打者もいなくなったというのだ。

これはおもしろい視点だと思う。つまり「情報量が増えることにより均一化が進む」ことの肉体的な例になりえるからだ。

その主旨を読んだもうひとつの場所は司馬遼太郎の「この国のかたち」の中である。テーマは「新聞の社説はどうしてどれもこれも似ているのか」。

明治以来、口語の文章は個々の文章家が苦心して開発、発明してきた。最初はひどくまずいものもあったし名文もあった。そのうちに他者の上手いところを模倣し、自分の拙いところを削り、すなわち情報量が増えるにつれ誰の書くものも似通ったものになった。

情報量が増えるということは<均一化が進む/みんな同じようなものになってしまう>という危険を必然的に含んでいるのである。

大人のような子供が増え、子供のような大人ばかりになっているのも、ひょっとしたらこうした均一化のひとつの現われかもしれない。

無定見に「情報、情報」「自分の引き出しをふやせ」などと言う口先情報男(男には限らない)が多いが、情報には均一化という副作用があることを忘れてはならない。生きるためにカロリーが必要なように、ある程度の量はなくてはならないものだが摂取しすぎると情報肥満がはじまる。

自分が誰かと同じようになるのを好まぬなら、あえて情報を取らないよう心がけることも重要だろう。「知らぬが仏」という諺は現代において、まったく新しい意味で重要な指針となると思う。




(2000年03月30日)





c 1999 Keiichiro Fujiura

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