言わせてもらえば
ストリップと風呂場はどこが違うか。

ストリップという演目を考えると、教えられることが多い。服を脱ぐ、というそれだけの行為がどうやってステージアートになり、ショービジネスになりえるのか。アートであるかどうかに疑問を持つ人もあるかもしれないがショービジネスとして成立していることは否定できないだろう。

日常的な裸、例えば風呂場での脱衣とストリップでは次のような要素の違いがある。

● 演者の資質/素材
● 芸/見せ方のテクニック
● 舞台という装置

演出、シナリオなどは大きな区分では芸のうちに入れることができるだろうし、音響、照明などは装置の一部だ。この3つによってストリップは「日常的でないもの」になっているのだが、このなかで決定的な要素は舞台でなく、資質でもなく「芸」そのものである。つまりストリップはストリッパーの「芸」によって日常的なものから舞台的なものに変容しているのだと思う。

最近意識してあちこちのライブに行き、演奏を聞かせる店に行くようにしている。ほとんどは楽しく刺激的だが、たまには「舞台が成立していない」ときがある。それは「下手」というのとはまたちょっと違う。いまの例でいえば「ただ脱いでるだけでストリップにはなっていないなあ」と感じるときがある。単純にいえば「芸がない」のである。では芸があるとかないとかはどういうことなのか。舞台と日常はどう違うのか。

以前、三上寛と話したことがある。彼が言うのには「すべてのステージはつながっている」。小さなライブハウスのステージも歌舞伎座の舞台もブロードウェイのステージもサーカスのリングも、みんなつながっている。それはステージという「日常と異なる空間であり、その空間はすべて、向こう側でつながっている」と言うのだ。

そこは「普通でない場所」なのであり、人を「普通でない気分」にさせる場所だ。客は普通でないものを見るために金を払うのである。ハレといい、祝祭といってもよいが、日常でなくお祭りにするためには我々は晴れ着を着、酒を飲み、労働を休み、御輿を担ぐではないか。舞台とは祭りの場であり、神だか悪魔だかの降臨する場所なのである。

確かなことは舞台は装置によって生まれるのではなく、芸の力で生まれるということだ。香具師が客を集めて「この線から入っちゃいけないよ」と線を引けば、その内側は結界であり、舞台となる。舞台を生み出すハードは地面に引いた一本の線だけで十分なのだ。舞台を生み出すのは一途に芸の力であり、極言すれば芸こそが舞台と言ってもよい。

照明、音響、演出、その他の方法は人を普通でない気分にするのに有効だ。例えばディスコ、例えばドラッグ、現代は普通でなくなるための道具であふれている。その一方で唄はカラオケによって日常のものとなっている。音楽だけで非日常を作るのは非常に難しい。多くのバンドがカラオケ並みの舞台しか作り出せないことにはそれなりの理由があるだろう。

しかし、舞台にあがるものがそれでいいのか。魔物が召喚されるような舞台を目指そうではないか。

私たちはステージで裸になっているのである。脱ぎ方を工夫せねばならぬ。




(2000年6月29日)





c 1999 Keiichiro Fujiura

表紙
表紙
黄年の主張
黄年の主張
GO PREVIOUS
前へ
GO NEXT
次へ