百人町

「百人町」は、おおまかに言って大久保駅と新大久保駅にはさまれた一角だ。昭和16年の地図にも百人町一丁目から四丁目までが現在と同じ位置に記(しる)されている。

いまではエスニックタウンとなってしまったが、江戸時代にはここに百人組が置かれていた。百人組とは同心百人による鉄砲隊で、それが町名の由来となった。

この辺りの区割りは細長い。一説によるとそれは「鉄砲場」が設けられていたからだという。鉄砲練習のためのシューティングレンジである。

新大久保の駅前に「階中稲荷神社」がある。百発百中を意味する「階中」神社はまことに鉄砲の町にふさわしい。大当たりを狙って受験生の祈願が多いそうだが、ナンパやtotoにもキキメがありそうな名前だ。

百人町に縁の深い地名に「千人町」がある。八王子の千人町には剣術武士団による街道警備隊、千人組が置かれた。こちらは白刃で戦う抜刀隊である。

百人組/千人組の役割は、西方への睨みだ。徳川家は三方ヶ原の合戦で代表されるように甲斐武田軍に苦渋を飲まされ続けた。江戸に入って後も甲州への防衛には神経を使っていたことがうかがえる。

結局は太平の世のためどちらも一度も活躍する機会はなく、千人組はあてがい扶持の生活が十辺舎一句などの戯作者を生む土壌になり、ここ百人町では薄給で糊口を凌ぐための作物としてツツジの栽培が盛んとなった。

しかし幕末になって千人組の子孫から天然理心流の末裔近藤勇が出たのだから、自らの存在意義を幕府安泰に置いた精神構造は世代を超えて強烈に伝えられたと言えるだろう。


(2001年8月10日)




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古跡には、孫文、小泉八雲、坪内逍遥、島崎藤村と多士済々。




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