言わせてもらえば
聖戦とはなんだ

信じられないようなテロが起こった。筋書きも映像もまるで映画のようだ。仕事の途中でニュースを見たりすると、その映像と自分の日常のズレを強く感じて非現実感に襲われる。まきこまれた民間人の方々には国籍を問わず心から冥福を祈りたい。

このニュースにはもうひとつ別の、印象的な映像があった。パレスチナの人々が歓喜乱舞していることだ。これもかなり異常な光景である。彼らにアメリカ民間人の死を喜ぶべきものと感じさせているものは、一体何なのだろう。

アメリカはすかさず報復のための周到な準備を始めた。「テロは許さない」という人道的メッセージと、「これは戦争である」という政治的メッセージを巧みに混在させて大規模報復の土壌を作ろうとしている。

もちろんテロは許されない。しかしテロであればそれは犯罪であり、犯罪に対する私的報復もまた許されるものではない。一方、戦争であるならばそれは主張/利害の武力的解決を意味するもので、本来どちらが悪いというものではない。これを意図的に混在させて国家レベルでの私的報復を許す国内世論/国際世論を形成しようとしているように見える。

私はもちろんいかなる意味でもテロを正当化するものではない。とくに民間人を巻き込んだ今回のテロは残虐卑劣きわまる無差別テロで決して許されないものだ。

しかし、報復の前に「なぜこのテロがおこなわれたか」と「だからといって恣意的報復をしてもよいのか」という議論は十分に尽くさなければならないと思う。

アメリカの国益操作メディアであるCNNは「いかに悲惨か」ということを衝撃的な映像とともに伝え、「誰が」「どのように」このテロをおこなったかを詳細に追っているが、「なぜ」このテロがおこなわれたかについては言及しない。それに追従する日本のマスコミもまた同じだ。

私もまたニュース以外のことは知らないしこの問題に詳しいわけではない。背景の事情についての知識は乏しい。

しかし「パレスチナの人々がこのニュースを知って歓喜している映像」と「なぜ このテロが起こったか」に深い関係があるだろう、くらいの想像はできる。

ベトナム戦争に参戦したアメリカの若者が戦争の意味に失望して薬物に走ったり精神障害を起こした経験から、アメリカは今度の報復を「自由、民主主義を守る戦い」「善と悪の戦い」とPRしている。しかし「善なる戦争」というものがありえるだろうか。

戦闘的ムスリムを「聖戦の名のもとに殺戮をおこなう狂った集団」と呼ぶ声があるが、自らの報復を「善なる戦い」と任ずるのもまた「聖戦」感覚である。

民間人を巻き込んだテロリスト集団が裁きを受けなければならないのは当然のことだ。しかしそれはアメリカがどのような報復も思いのままに行なってよい、ということではない。

パレスチナの人々がそれほどにアメリカを憎んでいる理由を解決しなければ、真の解決にはなるまい。





(2001年9月13日)





c 1999 Keiichiro Fujiura

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