Baduy
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バドゥイの考え方を聞くうちに
昔読んだ本を思い出し、はたと膝を打つ。

白バドゥイの二人がドンさんを訪ねてきたのは、ヤマモリさんの取材のためでもあった。ドンさんを通訳にしてバドゥイの生活や価値観について話を聞く。

ヤマモリさんの質問は結婚や葬儀や争議のありかたなど多岐にわたったが、そのあたりのことについて、私が記述しても不正確にしかなるまい。興味のある方はヤマモリさんが発表された記事を読んでいただきたい。アドレスはhttp://www.honya.co.jp/contents/yamamori/である。


たくさんの質問のなかで、私が最も感銘を受けた応答は次のものだ。


白バドゥイの若者たち 「どうして学校や教育を行わないのか?」
「教育を受けると、賢くなる。そうすると人を見下したり、ずるいことをしても人より得しようという思いが生まれる。それは不幸のもとである。だからバドゥイは教育をおこなわない。」





「不学無憂(学ばざれば憂い無し)」だって!?

私はこの返事を聞いてかなり驚いたが、しばらく考えて、ようやくバドゥイとは何であるか腑に落ちる気がした。以下、衒学(知ったかぶり)の文になることをお許しいただきたい。


「学ぶことをしなければ憂うことはない」という言葉は老子のものとされている。これは示唆深い言葉であり、ひとつの真実かもしれないが、理論にすぎない。我々は文字を読むことによりその言葉を知ったのであって、その言葉を実践しているわけではない。それは単なる机上の概念である。

老子本人にしたところで、著作を残したわけだから「学ぶことから自由でいることはできなかった」と言わざるを得ない。


それを、この人たちは実践している。個人ではなくひとつの社会として。長い時代に渡って「学ばないこと」による不利益と「学べばより豊かに快適になれるだろう」という欲望と戦いながら、体現してきたのである。いままで単なる概念だと思っていたものが現実に存在するものだと知って、私は愕然とした。


「老子の概念」を彼らが実践しているのではあるまい。彼らが大切にしているものが文字にならずにずっと伝えられ、それが思想の根底となり、老荘はそれを文字にしたにすぎないのではあるまいか。バドゥイとは、東洋思想の一つの源流が原型をとどめたまま現代に生き残っている姿なのではないか。


さらに質問は進む。
「『乗り物に乗ったら追放』が白バドゥイの戒律だという。しかし誰も知らないところで乗った場合、黙っていればわからないではないか。村の外での違戒をどうやって罰するのだ。」

その答えは、こうであった。

「自分が知っている。」



誇り高き部族、バドゥイ。
それを破った場合「誰に知られなくても、自ら恥じる」ものだ、という。

バドゥイの戒律とは我々の社会法律のように「誰かに強制され、それを破った場合罰される」ものというよりも「自分の覚悟で守るべきものである」ということらしい。宗教のようでもあり、強い倫理のようでもある。

私たちの知っている文化でいえば、武士道のようなものかもしれない。バドゥイは「誇り高き部族」なのである。


バドゥイは「未開」という言葉でとらえるべき部族ではない。彼らは私たちとは別の価値体系のなかに生きているのである。

経済社会の中ではそれは不利な生き方に違いない。にも関わらず彼らはその誇り高い戒律を貫こうとし、しかし押し寄せる外界からの誘惑の前で揺らいでいる。




c 1998 Keiichiro Fujiura


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