Ujungpandang
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どうしてもこの町を出られない!?
ついにインドネシアの僻地に朽ち果てるのか。

どうもこのホテルの周辺は「港町」という感じがしない。古い貿易港ウジュンパンダンの痕跡を味わいたいのだが港はどこにあるのだろう。レストランの回りは海だが港ではなかった。


サラムがうるさいので私はロビーに行くときには廊下の角から見て彼がいないのを見澄ますことにした。

そうすると困ったことに言葉がまったく通じない。片言の「Port」とか「Ship」とかの単語もまったく効果がないので、しかたなく船の絵を描いた。下手な絵だが、煙突を立てて煙もサービスする。

とたんにロビーにいた男女の顔が明るくなった。口々に「ペルニ!」と言う。発見に感動しているらしく叫ばんばかりである。これが「港」という単語なのか?私もその「ペルニ」という言葉を覚える。みんなの顔が私をのぞき込む。「ペルニへ行きたいのか?」私はうんとうなずく。とたんに連中はタクシーをつかまえてきた。運転手も「ペルニ?」という。私も「ペルニ」と答える。送る人々はみんな大満足で、ニコニコしている。


タクシーは、しかし空港の方向へ向かった。変だ。そっちは山の方角ではないか。ホテルのすぐ近く、アカシアの並木道にある大きな建物にタクシーは着く。海も港もない。山の手の役所みたいな建物だ。運転手が「ここだ。降りろ」と手で示す。なんだかわからない。

私を残してタクシーは去った。立派な建物である。旗がはためいている。インドネシアの国旗と、もうひとつ。「Pelni」と書いてあるようだ。ペルニ?では、会社の名前だったのか。

後でわかったが、Pelni社はインドネシア最大の船会社で、いやしくもインドネシアの島部を旅行するものならば知らないはずのない会社であった。私ときたら、こんなことさえ知らないのだ。しかも、その日は土曜日でこのオフィスは閉まっていた。この奥に入れればスラバヤまでの切符が手に入るはずなのに。


日陰を歩く子供 私はアカシアの並木道をホテルまで歩いた。

あと一週間でジョグジャカルタに行かねばならない。この旅で「いつまでに行かねばならぬ」というのは初めてのことだ。とりあえず、ここからスラバヤまでの交通手段を確保することだ。船に乗ることにすれば自然に港も見ることができるだろう。まずは船の切符を手に入れることにしよう。旅行代理店なら多少の英語も通じるかもしれない。


旅行代理店は案外近くにあった。かたことの英語も通じる。スラバヤまで船でいきたいというと「うちは飛行機オンリーだ」という。飛行機だとまたバリクパパン経由になる。なんだか馬鹿らしい。

「船でスラバヤまでいったとするとどのくらい時間がかかるんだ?」
「2日2晩」

それは大変だ。予定もあることだし、ジョグジャカルタまでの途中にあるソロという街にはゆっくり滞在したい。ここで船の中に2日2晩費やすと、ちょっと先があわただしくなる。ここは飛行機で行くしかないか。


アジアの物価は安いといっても、飛行機は別物である。スラバヤまでの飛行機代は610,000rp(8662円)もする。手元に持っているルピアは30万足らず。この旅行代理店ではクレジットカードは使えない。ドルも円もダメ、ルピアしか受け付けないという。

もう土曜日の昼だ。きのうの体験からこの町での両替が大変なことはわかっている。現金がなければこの町から出られない。この町では現金を手に入れるのが難しい。インドネシアに死す、かと笑いたくなる。このままではこの町を出られないではないか。



c 1998 Keiichiro Fujiura


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